「継体朝のころまだ王家は一つに限定されていなかった」説は本当か
新説! 謎の大王「継体天皇」と王位継承の謎 第3回
これに対しては、倭の五王がいずれも「倭」という同じ姓を名乗っていたとみられることから、「珍」と「済」の続柄は記されていなくとも、彼らは同じ父系血族に属していたとする反論がある。これにはさらに義江明子氏の反論がある。義江氏は、こうした中国史書の記載する続柄記載は、「中国と通交をもった前王を継承する政治的地位にあること(それを中国側が認めたこと)の表明にほかならず、現実の親族関係とは別次元のタームなのである」、「「子」というのは“次代の王”の意味であって前王と父子関係とは限らない。「弟」とある場合にも、まず(王位継承候補者群の中の)“同世代の年少者”を意味した蓋然性が高い」と述べる。
五世紀史の研究に中国史書が重く用いられるようになったのは、戦後『記・紀』の信憑性に疑問がもたれるようになったからであった。そこで『記・紀』の大王系譜の記事と『宋書』倭国伝を比較検討することで、確実な史実を追究しようとしたのだった。しかし中国史書の所伝さえも信じられないのであれば、そもそも五世紀の王統を文献で追究するのは不可能になってしまうであろう。こうした説が今後通説としての位置を確立していくのかどうか。継体の出自をめぐる論争は、今後も目が離せない。
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